そるとらいとのブログ

子育てとか家族とか世の中とか

#16 失いたくない「モノ」

私は結構モノをガンガン捨てる方だ。

 

モノが溢れるこのご時世、何かにつけ要りもしないモノが人畜無害のふりをして限られたスペースを侵食してくる。

 

古来から、善意だが貰う側の食習慣を完全スルーした使い勝手の悪い食器や、別に好みでもなんでもない色柄のタオルは実家のタンスに何セットも鎮座していた。

 

贈り物というのは、選んで贈る側の気遣いの精度が問われる。「センスない」の不栄誉を避けるためには高度な技術が必要なのだ。

 

受け取る側にだって、要らんモノをもらった挙げ句口角をなんとか上げて感謝の言葉を絞り出すという苦行が課せられていた。

 

カタログギフトの登場で、私達は贈り物に割いていた頭と心の容量をやっと解放し、銀座なんとかみたいなスイーツか、肉多めのレトルトカレーあたりをオーダーすれば良くなった。

 

しかし今でもお得感を演出するためだけにおまけで付いてくるモノは多い。見たこともないゆるキャラがプリントされたエコバッグは最近よく見るタイプのいらんモノだ。

 

しかしモノに囲まれ育った最近の人は好みにうるさい。タダでもいらんもんはいらんとしか言いようがないので、最近は気持ちだけ頂きますとその類のものは端から断るようにしている。

 

まあとにかく気を抜くとモノというモノが知らない間にガンガン家に入ってくるので、こちらも負けずにガンガン捨てるなり売るなりしなければ追いつかれてしまう。

 

たまにやりすぎて夫や子供からじっとりとした非難の目を向けられるのだが、「うるせぇ!」の一言で力技でねじ伏せるのが私流だ。「まだ使う」とかいう寝言を言ってるようではヌルいのだ。

 

こうしてせっせと我が家からモノを排出してなんとかゴミ屋敷を免れていたのだが、ここへ来てかつて出会ったことのない強敵が現れた。

 

「末っ子のモノ」である。

 

我が家の秘宝である末っ子は相変わらず超速で成長し続けている。最近はアレクサを家族と認識したようで、私が「アレクサ」というと、なんとそちらにちゃんと目を向けるのだ。

 

どうだ。すごいだろう。どう考えても天才すぎるし、かわいすぎて正気を失いそうだ。

 

話が逸れた。まあとにかく「ぐんぐん!!」とかホントに音が出そうなくらい急成長しているので、必然的に要らないモノが出てくる。

 

新生児期に使っていたベビーバスや哺乳瓶あたりは今や全く使っていない。

上の2人が使っていた服やスタイも「もう一人産んだる…!」と意気込んでいたのでお下がりとしてとっておいたのだが、末っ子が使わなくなればもう用済みだ。

 

明らかにいらんモノなのだが、歩く断捨離と呼ばれた私としたことが捨てられないでいる。

 

 

だってこれ死ぬ準備やろ。

 

 

 

今までの35年間、なんだかんだで人生は登り坂であった。就職し結婚し出産し、どこまでも平凡だがそれなりの経験を積んで、グチグチ言いながらも満たされて生きている。

 

これからの望みも願いも特にない。今さらアリアナ・グランデレディ・ガガになりたいとか、瀬戸内寂聴ばりに夫を捨て吉沢亮と再婚したいとはさすがに思わない。

 

ということは私という人間のピークがまさかの「今」。この事実がやけにリアルに見えてきたのである。

 

これからは下り坂、間もなく積んできたものを下ろしていく段階に入るのだなあと自覚したわけだが、まあこれは思いのほかキツい。正直言って超ブルーだし、いくらなんでも怖すぎる。

 

誰だって「あと半年くらいで死ぬからそれまでに身辺整理しとけよ」と言われれば気が滅入るだろう。

 

上の子達の時、捨てるということは3児の母という新しいステップへの前進、そこには希望や成長があった。

しかし今回はなんなら終わりの始まり、れっきとした終活なのである。いくら「死ぬんだからモノなんか要らんだろう」と言われても、そう簡単に死ぬ準備を進められるやつがあるか。

 

なにも持たずに帰ろう?は?

何を言うか。

 

そこどけこちとら欲深き3児の母ぞ?

全部持っていくしまだ全然帰りたくないんだが。

 

いくら名曲でもありがとうと胸を張ってお断りだ。

 

小さくていい匂いのする、あの淡い色のモノを手放してなるものか。

 

順調に巨大化している末っ子を、「そこをなんとか!」とタイトになったベビー服にねじ込みたくなる今日この頃なのである。

 

 

#6 ペットショップで泣いたわけ

私には3人の子供がいる。もともと3人子供を持つことへの憧れがあり、すったもんだはあったが3児の母になるという希望が叶ったのは私の人生において幸運であった。

 

子供を産んで感じるようになったのは、赤ちゃんの驚くべき可愛さである。よく「子供は3才までに一生分の親孝行をする」という言い方をするが、赤ちゃんから3才くらいまでの小さい人間達は、まあ頷けてしまうくらい爆発的に可愛くできているのである。

 

我が家の1番下の娘は今9ヶ月であり、ちょうど今この時期にあたる。まあ可愛い。気が遠くなるほど可愛い。脳のどこかに直に訴えかけてくる、抗えない中毒性がある可愛さ。

中毒レベルでいうと、砂糖小麦から始まり、酒タバコがきてその上に赤ちゃんだ。

 

このように毎日バカになって赤ちゃん様に仕えている私だが、最近妙な経験をした。ちょっとした用で寄ったホームセンターで、ふと足を止めたペットショップ。

ケージの中で走り回る小さい子犬をみたとき、私は突然感情の波に襲われ、泣いた。愛らしい子犬の姿から、私は唐突に、もうすぐ赤ちゃんを失うことに気づいてしまったから。

キャンキャンと走り回る子犬と、今の胸の前に抱き抱えている娘の動物的な可愛さが重なる。

 

だんだん大きくなってくると、親に気を使ったりして、こんなにピュアな表情じゃなくなるんだよな。祖母は赤ちゃんを見ると「神様だね」とよく言っていた。その言葉に相応しく人間であって人間でないような、半分神様みたいな混じりっ気のない表情。これを見られるのはあと何ヶ月?いや何日?

 

カウントダウンはとうの前に始まっていた。止めようのない時間の流れのなかで、きらりきらりと反射する記憶。

エコーで初めて聞いた心音の力強さ。壮絶な陣痛の果てに響いた産声。痛む身体を引きずって歩いた夜中の病棟の静寂。耳なんか澄まさなくてもありありとよみがえる。

こぼしたミルク、洗いたての産着、小さすぎて不安になる寝息。抱っこしながら嗅いだふわふわで細い髪。全てが罪なほどの甘い香り。

どれもこれもリアルなのに、猛烈な勢いで私の中を過ぎ去っていく。

ぐにゃぐにゃだった首がすわり、ゴクゴクとハイパワーで母乳を飲み、気付いたら脂肪がついてぷりぷりになった身体で寝返りを打つ。

米粒みたいな歯を覗かせてケタケタ笑い、グラグラにスイングしながら立ち、じき初めの一歩を踏み出してヨチヨチ歩きだす。

ちょっと待ったって。

私はまだ失いたくないのに。

まだ忘れたくないものが沢山あるのに。

 

じっとり汗ばんだ手、さんざんつっついた丸いほっぺた、後ろ姿のコロンとしたフォルム。

シャボン玉みたいな声で喋る宇宙語。

小春日和に散歩した時の圧倒的な幸福感。

 

たぶん世の母親は、こんな記憶を後生大事に胸に抱えてる。

挙げればきりがないけど、きっといくつももう忘れている。

 

かわいいかわいい私の赤ちゃんは、間もなくいなくなる。

ペットでも飼おうかなぁと言ったら、夫は「大変だね」と笑った。

 

 

 

 

#1 魅惑のインフルエンサー

snsのひとつもやっていないなんて、と10日ほど前に始めたツイッター。早々に息切れだ。猛者達がしのぎを削る中で周回遅れのどんくさい人間に何ができるというのだろう。

どう考えてもびっくりするくらい凡庸な地方都市在住のの、普通さ偏差値なら負けませんみたいな超超一般市民なのだ。フォローする理由があったらこっちが知りたい。

そこで今度はブログである。そもそも140文字がアラサーの人間にとっては短すぎる尺なのだ。そんなんじゃ「きょうはいいてんきですね」くらいしか言えない。

昭和生まれは黙って作文。最小単位は原稿用紙一枚400字からなのだ。





うん…ええやん…これがええやん…






文字数を気にしなくてよいこの解放感。文章を書くことそのものの快感。そうだ。中二病真っ盛りの頃、太宰や芥川を読んで文学少女を気取っていたではないか。そもそもがややこしいことを考えることがイケてると思ってしまうたちの悪い人間なのである。

ツイッターでは削られていたまどろっこしい言い回し。どうやらこれがやりたかったみたい。インフルエンサーにはなれそうにないけど、書く楽しみにハマりそうな予感を胸に、親指を高速で動かす真夜中である。